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重唱の悦び モーツアルト「レクイエム」とロッシーニ「セビリアの理髪師」

悔しくもあり、恥ずかしくもあり、でも嬉しくもあり、そして楽しいひと時だった。


火曜の午後は、モーツァルトのレクイエムの楽譜とにらめっこしながら、自信がない部分の確認。特に Domine Jesu から後が、ところどころ音やリズムが怪しい。散々歌ってきたはずなのに、コロナ禍の二年余り、音楽を歌うことはおろか、聴くことさえ憂鬱に思えて遠ざかっていたことが悔やまれる。


ところが同じ箇所ばかり何度も聞いていると、何をやっても長続きしない性分が顔を出す。飽きてくるのだ。そこはお得意の脇道散歩。普段練習でもスキップされることがほとんどの、ソリスト登場の部分に浮気することになる。


Requiem から Dies irae まで、集中力を高めて一気に駆け抜けると、もうそれだけで全曲歌ったような錯覚(そして明らかな疲労感)を覚える。そこにソリスト登場だ。Tuba miru。荘厳な雰囲気の導入部は、合唱にとっては呼吸を整えて仕切り直しする時間か。歌唱はバスのソロで始まる。力強い。かっこいい。隣家の迷惑にならないように、心の中でそっと歌ってみる。でもその後のテノールの部分には負ける。いいなぁ。テノール。いつもおいしいところをさらっていくテノール。うらめしや。


Recordare は、ソロ4パートの本格的なかけあいが心地よい。すぐれた歌手の重唱を聴く悦びは、なにものにも変え難い。自分が美しく歌えたらもっといいだろうに。だからそっと歌ってみる。心の中で。小さな声で。


モーツァルトといえば、オペラ「フィガロの結婚」だが、実はレクイエムの Toba mirum の終わりの方でソプラノを受けて4パートがsotto voce で歌い出す51小節目周辺にくると自分が思い出すのは、なぜかロッシーニの「セビリアの理髪師」の一場面。第一幕の終盤。身分を隠して愛する女性に会いに行き、騒動を起こした伯爵を、軍隊が取り押さえようとしたところで、身分を明かす。その後の部分。Fredda ed immobile。ひとりひとりが、淡々と歌いながらも、それが正確に重なり合うことで心地よさが生まれる。モーツァルトのレクイエムとは確かに「どこが似てる?」という感じだけれど、それでも重唱の楽しさ、奥深さを感じられる大好きな場面なのだ。



そんな午後を過ごしたので、その夜の練習で箕輪先生が、Rex tremendae が終わったあとConfutatis に飛ばずに、Recordare歌える人、歌ってみる? と声をかけてくださった時はちょっとびっくりした。思わず「いいですね。やってみたいですね」。昼間、プロの演奏を聴きながら小さな声で歌ってみた時は、ある程度歌える気がしたからなのだが、いざ歌ってみると、あれあれ、やっぱりなんか違う。あれ? ここ音とれてたはずなのに。あわわ。


きちんと歌えなかったことが「悔しくもあり」、やってみたいですなんて抜け抜けと言ったことがちょっと「恥ずかしくもあり」、でもそんな機会をいただけたことが「嬉しくもあり」、そして「楽しいひと時だった」のだ。


人様に聴いていただいても恥ずかしくない演奏ができるようにすることはたいへんだけれど、でもその前にまず、いまは歌うことが楽しい。だから、うまく歌えなくても楽しいと感じることができた、その自分の気持ちをいまは大切にしたいと思う。音楽を楽しいと感じなくなってしまった時期をくぐり抜けて来たいまだからこそ、そう思う。


先生、また機会があったら、ほんとにたまにでいいので、ソロパート歌わせてください。今度はもうちょっとちゃんとやります(ほんとかな)。みんなもやってみませんか? ハモりたいな。美しくアンサンブルできたら「レクイエム」全体の表現にも、さらに幅が出るかもしれませんよ? せっかくなので楽しみましょう。


(12日は会場の都合で練習がありませんけどね・・・)。


週末もいいお天気でした。桜もそろそろ見納めですね。

鮮やかな黄色と白のコントラストが目に染みます。

(あね)

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